75 第39図 012号墓出土遺物 1
第8節 021 号墓
(1)遺構(第 52 図〜第 53 図、図版 23)
021 号墓は調査区西側斜面丘陵の北向きの斜面に位置し、墓口は北北西を向く。斜面地に墓室を構築 した亀甲墓である。当墓は本調査以前に廃棄され、墓口は開口していた。板状の閉塞石が左袖石に立て かけられ、シルヒラシやサンミデーに破損した蔵骨器が散乱していた状況であった。
チジ(屋根)は石列の残存状況から平面形が後方で湾曲する馬蹄形状を呈することが推測される。ヤ ジョーマーイは見られない。ウーシ(臼)に繋がる屋根周縁の石列は正面側に小振りな切石を使用し、 屋根の内側及び上側に面を向ける。後列の石列は外側および上側に面を向ける。チジ中央はほぼ平坦で 盛り上がりや石敷きは見られない。マユ(眉石)は4個の切石で構成されており、眉頂部は平坦に仕上げ、 眉端部に向かって下方に屈曲し、先端部付近で上方に反る。端部が反り上がり、両端部は5㎝ほど厚み が増す。眉正面の庇部には小さな段が施されている。正面向かって左側のウーシ(臼)は見られるが、 右側のウーシは欠落する。左側のウーシは眉端部と接し、眉石より内側に配置される。クヮウーシ(子臼) は見られない。墓正面は岩盤の削り出しで、墓口に厚み約 0.13m、幅約 0.97mのジョウカブイ(門被い) と幅約 0.2m、高さ約 1.2mのジョウハシラ(門柱)が嵌め込まれている。墓口は幅約 0.63m、高さ約 1m、 奥行き(羨道の長さ)0.83mを測る。ジョウカブイと岩盤の隙間に小振りな切石による相方積みが見ら れる。羨道の床は2個の切石を敷き、サンミデー(供物台)や墓室(シルヒラシ)と段差を設ける。サ ンミデー(供物台)は1段で、スディイシ(袖石)と直線上に切石を列状に配して墓庭と区画する。縁 石と墓正面の間に石灰岩を砕いた石粉が混じる造成土で重鎮する状況が窺えた。カビアンジ(紙銭焼き 場)は見られない。スディイシは墓正面左右に岩盤削り出しの1段で構築されている。墓正面に一部漆 喰が残存するが、スディイシでは斜交層理が顕著に見られる。墓庭は岩盤を掘り込んで平坦化を行って いる。ワラビヌティ(童の手)は見られず、残存する右側のナージミー(庭積み)は岩盤削り出しで構 築される。左側のナージミーは 022 号墓の背面石積みの構築により埋没または消滅したと考えられる。 右側のナージミーの上端では018号墓や019号墓で確認された段差は見られなかった。ハカヌジョー(墓 門)は見られなかったが、現存の墓庭の法量は奥行き約 6.1m、
幅約 4.2mを測る。墓庭の北東隅付近で獣(偶蹄目イノシシ 科)の頭骨が出土した。造成土層より検出され、ピットの 掘り方が不明瞭である。南北軸に沿って犬歯が北を向いて おり、北を意識した埋納と考えられる。
墓室は棚を含めた幅が約 3.3m、奥行きが約 2.8m、シル ヒラシから天井までの高さ約 1.6mを測り、岩盤に横穴を掘 り込んで造られた墓室である。棚(タナ)は奥側に2段、 左右に1段ずつ見られる。2段目の縁部は切石が列状に配 されており、その内側には石灰岩を砕いた小礫と石紛が混 じる明黄褐色砂で重鎮されている状況が確認できた。2段 目はシルヒラシ側の平面観が無段のコの字状を呈するが、 奥壁および左右の側壁の平面観は凸状となり、奥壁の1段 目の天井部分もアーチ状を呈していることからも本来の棚
の形状は出窓状であったと考えられる。よって、後世のある時期に棚を増築し、左右壁を棚と同じ高さ に掘り込んで面を揃えたと見られる。現況のシルヒラシの法量は幅約 1.7m、奥行き約 1.7mを測る。奥 壁の1段目の高さはシルヒラシから約 0.7m。2段目の高さは約 0.3m。
本墓の造墓年代は不明だが、墓室の本来の棚形状は奥壁および左右の側壁からなる出窓状で墓室類型 の2類b型であったと推測されるが、切石で構築された棚の追加など後世に造り替えた時期があること が示唆される。使用年代については、図化を見送ったボージャー型の身で安里分類のⅢa式(1700 〜 1800 年)と蓋でⅤb式(1740 〜 1770)が出土していることや、確認された銘書で最も古いものが第 54 図 179 身の「大清乾隆四/■■[ 拾年カ]/・・・」で乾隆 40 年(1775)であることなどから 18 世紀 代に使用が始まり、最も新しい銘書は「大正七年・・・/骨古波蔵山戸」で大正 7 年(1918)が見られた ことなどから 20 世紀の初頭まで使用された墓であると考えられる。
(2)遺物(第 54 図〜第 55 図、図版 61 〜図版 62)
021 号墓からは蔵骨器、本土産磁器、沖縄産陶器、煙管が得られた。蔵骨器はボージャー形、甕形、
御殿形が出土している。そのほとんどはサンミデー(供物台)に廃棄されていた。以下、残存状況が良 いものを図化した。銘書から宮城姓や古波蔵姓を確認した。また、第 55 図 183 のマンガン釉甕形の蓋 より「前のろくもい」の銘書が確認されたことは特筆される。
第 54 図 178、179 はボージャー形でシルヒラシに横たわった状態で出土した。原位置は保っていな いものの、唯一蓋と身がセットで分かる資料である。178 の蓋はつまみやつまみ台が見られない笠形で ある。安里分類のⅦ式(1750 〜 1820 年)に相当する資料である。蓋内面に「なへ」と銘書がある。身 は頸部沈線が3本、胴部は無文で、平葺形のマド枠が貼り付けられている。安里分類のⅣ式(1720 〜 1820 年)に相当する。マド枠下方に銘書が見られ「大清乾隆/四■■[拾年カ]/■■新■・・・や/う し宮城■[母カ]/なへ」と読める。宮城姓が確認できる。
第54図180はボージャー形の身である。口縁部は玉縁状で内傾し、頸部沈線が2本、胴部は無文である。
唐破風形のマド枠が貼り付けられる。安里分類のⅢc式(1700〜1800年)に相当する。墓庭(サンミデー)
より出土。
第 54 図 181 はマンガン釉甕形の身である。肩部文様帯は無文で、横帯3・4は貼り付けの突帯。瓦 屋形の屋門が貼り付けられ、柱には蓮華を意匠した模様が見られる。胴部文様帯に蓮華に乗る法師像を 貼り付けし、蓮華および茎や法師像の上方の花文も貼り付けにより施される。胴下部文様帯は蓮華文の 貼り付けが見られる。安里編年のⅡ期(1770 〜 1800 年代)の資料である。
第 54 図 182 はマンガン釉甕形の身である。横帯3は貼り付けの突帯だが、横帯4は2本の沈線となる。
肩部文様帯は沈線で葉文を施し、胴部文様帯には沈線で蓮華文、胴下部文様帯は櫛描波状文が2条見ら れる。屋門は貼り付けのアーチ形。安里編年のⅣ〜Ⅴ期(1850 〜 1920 年)と見られる。
第 55 図 183 はマンガン釉甕形の蓋でつまみは宝珠形で鍔や端部を平坦に仕上げる。つまみ台から棟 状の突帯が十字状に4本伸び、上面観を4つに区画する。突帯は体部中央で止まり、突帯下端部に左右 対称の渦巻き状の装飾を棟と平行に貼り付ける。全体的にとても丁寧に作られ、マンガン釉を表面全体 に施釉する。蓋内面に「卯八月廿三日前のろくもい洗骨仕申候」とある。墓庭から出土。『琉球国由来記』
に記載される市内の祭祀場は城間を含む十五村落あり、城間東空寿古墓群が所在する城間にも「巫」が おり、稲二祭や麦二祭を執り行っている。城間集落にはノロの家系につけられた屋号として「ノロ殿内」
が残っている註 1 。前のろくもいの「くもい」は接尾敬称辞であり註 2 、この銘書から被葬者は前代のノロ で卯八月廿三日に洗骨をしたことが分かる。ただし、ノロに関する銘書はこの1点のみのため本墓がノ ロ墓という確証はないが、城間ノロの墓を考える上で貴重な銘書である。
第 55 図 184 は上焼コバルト釉御殿形で屋根は入母屋形となる。大棟に一対の鯱を配し、唐破風頂部 に龍頭が施される。龍頭および降棟の先はツノになり、中央に格子文と花文が貼り付けられる。庇上面 は軒瓦を表現し、重ね焼きの跡が見られる。身と接する部分に銘書が見られ「大正七年…/骨古波蔵山戸」
とあり、大正 7 年(1918)に洗骨されたことが考えられる。
第 55 図 185 〜 188 は墓室シルヒラシから出土した小杯である。全て沖縄産施釉陶器で、185、187、
188 は白土を用いて成形し、透明釉を施している。素地は灰白色を呈する。185 の法量は口径 3.4 ㎝、
器高 1.65 ㎝、底径 1.8 ㎝を測る。187 の法量は口径 3.6 ㎝、器高 2.25 ㎝、底径 1.9 ㎝を測る。188 の 法量は口径 4.6 ㎝、器高 2.45 ㎝、底径 2.2 ㎝を測る。186 は褐色釉を畳付け脇から内底面にかけて施す。
素地はにぶい黄橙色を呈する。法量は口径 3.8 ㎝、器高は 1.9 ㎝、底径 2.1 ㎝を測る。
第 55 図 189 は本土産磁器の小杯である。法量は口径 6.8 ㎝、器高 3.0 ㎝、底径 2.4 ㎝を測る。口縁は 直口で、畳付け以外を透明釉で全面施釉する。高台外面にコバルトで波文が1条見られる。外底面にコ バルトで文字らしき文様が見られる。墓庭から出土。
第 55 図 190 は本土産磁器で口縁が直口する小杯である。法量は口径 5.7 ㎝、器高 2.6 ㎝、底径 2.1
㎝を測る。畳付け、外底面以外は透明釉で全面施釉される。内底面に赤色で花文が施される。外面下部 は4箇所を面取りした形状となる。底部は面取りした稜線に沿って直線状に成形し、平面観が八角形と なる。墓庭から出土。
第 55 図 191 は沖縄産施釉陶器で渡名喜瓶と呼称される瓶である。法量は口径 3.6 ㎝、器高 20.8 ㎝、
底径 6.0 ㎝を測る。黒色釉を高台脇まで施し、高台は露胎となる。胴部中央に3条の沈線が巡る。素地 は灰色を呈する。墓室から出土。
第 55 図 192 は沖縄産施釉陶器の瓶子で、口縁部が打割される。法量は器高が残存で 15.9 ㎝、底径 7.4 ㎝を測る。白化粧の後、透明釉が施される。畳付けは露胎で、頸部内にコバルト釉が一部施釉される。
胴部外面にコバルト釉で撫子文が描かれる。素地は浅黄褐色を呈する。
第 55 図 193 は青銅製の煙管の雁首である。法量は長さ 6.7 ㎝、幅は 1.7 ㎝、火皿の径は 1.3 ㎝、首 部の立ち上がりは 2.05 ㎝を測る。重量は 13g。ラウ接合部の長径が 1.3 ㎝、短径が 1.0 ㎝である。上 面は灰を落とすために叩いた跡の窪みが見られる。下半部には布目の跡が見られる。墓室から出土した。
第 55 図 194 は金属製の延べ煙管である。法量は長さ 11.5 ㎝、吸口径 0.5 ㎝、火皿の径 1.0 ㎝、首 部の立ち上がりが 1.7 ㎝を測る。継ぎ目が上面に見られる。火皿近くの上面は 193 と同じような灰を落 とすために叩いた跡が多数残る。
< 参考文献 >
註 1 城間字誌編集委員会『城間字誌 第一巻「城間の風景」』浦添市城間自治会 註 2 沖縄タイムス社 1983 年「ノロ [ 祝女 ]」『沖縄大百科事典 下』